初代キーボーディストの三谷泰弘さんが脱退し、次に加入したのが光田健一さん。サポートメンバーからスタレビの正式メンバーへ。そして脱退。アカデミックな才能を持った光田さんはスタレビに新しい風をもたらしました。スタレビの第2期をご紹介。
スターダスト・レビュー 第2期 1995年~2001年
初代キーボーディストの三谷泰弘さんの脱退。スターダスト・レビューにとって大きな出来事でしたが、それぞれを尊重してのこと。三谷さんはソロへ活動へ、スタレビは4人での再出発。
スタレビ第2期にかかせないのが光田健一さんの存在。サポートメンバーからスタレビの正式メンバーとなりますが、その後脱退。光田さんの残した功績はとても大きい。そんなスタレビ第2期をご紹介します。
新たなスタレビの始まり アルバム「艶」リリース
1994年のツアー「STARTIC’94」、12月25日の福岡国際センターでのライブが、三谷さんのスタレビとしての最後の場となった。新生スタレビの活動をスタートさせたスタレビは、年明けからニューアルバの制作に入った。新作は、生演奏にこだわったバンドサウンド。三谷さんが在籍していた時代、特に1980年代半ば以降は、キラキラとしたデジタルなサウンドが多い。楽曲のアレンジは三谷さんがすることが多く、そういった三谷さん主流のアレンジが、スタレビを「おしゃれなバンド」に仕上げていたところもある。
しかし、スタレビは今までの自分たちの音楽性を改めて認識しなおし、生の音にこだわったアルバムを完成させた。それが1995年6月26日にリリースされた「艶」。アルバムタイトルは、バラエティに富んだ、さまざまな楽曲を散りばめた、ということで豊かな色=艶と名づけたそう。
アルバムの1曲目を飾るのは、軽快なロックンロールナンバーの「KEEP ON ROLLIN’」。おしゃれなスタレビを想像していた人からすれば、少しの違和感を感じたのかもしれない。でも、この曲の持つ勢いは、スタレビからのメッセージのように感じる。「転がり続けながら音楽をやっていく」そんな決意表明なのでは。今でもライブで演奏される楽曲が多く収録されたこの「艶」。個人的には名曲ぞろいと感じていて、今のスタレビに通じる礎となったアルバムのように思う。
光田健一との出会い
アルバム「艶」リリース後、スタレビはライブに向けて、サポートメンバーを迎え入れることになった。そこで出会ったのがキーボーディストの光田健一さん。光田さんとは、SAXプレイヤーの山本公樹さんを介して知り合った。
山本公樹さんとスタレビの出会いはライブハウスツアー「FACE TO FACE
」への参加がきっかけ。ライブでは、新たな試みとして、ホーンセクションとのコラボ―レーションがあった。ホーンセクション3人の内の一人が公樹さん。このツアーは、ライブアルバム「FACE TO FACE」として1992年にリリースされている。公樹さんはその後もスタレビのツアーに参加したりと、交流は続いている。
要さんは、「埼玉という田舎で、ただただ音楽が好きでバンドをやっていた。だから光田のようにアカデミックな経験が誰にもない。そういった天才的な光田の感性は、スタレビに新しい風を呼び込んでくれた。」と語る。
初めてのリハーサル、6人で音を出した瞬間、要さんたちは「これはイケる!」と感じたそう。新たなスタレビの幕開けは夏の「STARTIC’95」ツアー。スタレビと、光田さん、公樹さんのサポートメンバーを入れた6人での初めてのステージは、1995年7月29日、香川県のさぬき市(当時・志度町)の※野外音楽広場テアトロン。
※テアトロンはスタレビが毎年の野外ライブを行う、ファンにとっては聖地と言える場所。
この日のライブでは、新しいスタレビの決意表明をするかのように、光田さんのピアノから始まった。続いて、6人でのアカペラへとつながった。光田さんは、三谷さんという大きな存在の後を引き受けるとあって、やはり緊張や不安もあり、会場の空気にもそれが感じとれたそう。でも、それがふっとやわらいだ瞬間、「受け入れてもらえた」と感じたとのこと。ルックスのかわいらしさ、人なつっこいキャラクターもあって、すぐにファンにも「健ちゃん」と親しまれた。
新生スタレビは、この日、いつも通り、パワフルで楽しいライブを展開。ステージを終え、楽屋に戻った要さんは涙が止まらなかったそう。リハーサルで「これはイケる!」と感じたことが確信に変わった瞬間だったのかもしれない。「STARTIC’95」での手応えそのままに、10月からはアルバム「艶」を引っさげたツアー「艶-Keep On Rollin’-」で全国をまわった。
私も、このツアーで新生スタレビを観たのだが、とても思い出に残るツアーになった。6人でのライブがとても小気味よく、心地よいのだ。そしてとにかく楽しい。1曲目はアルバム同様「Keep O Rollin’」。スタレビの第2幕が始まったんだ、と感じられた。
おしゃれなバンドからライブバンドへ
デビュー時からライブには定評があったスタレビ。1980年代半ばからライブ数も増えていった。スタレビは、1980年代後半から1990年代前半にかけて、おしゃれなバンドのイメージがあった。それは、三谷さんが創り上げていたデジタルで洗練された音創りにあったと思う。メンバーの衣装もスーツが多かった。要さんも、初期の丸メガネから、黒いサングラスにリーゼントといったいでたちで、見た目は大人の雰囲気を醸し出していた。
バンドサウンドにこだわって創ったアルバム「艶」のように、ライブもバンドとしての魅力がよりエネルギッシュに伝わっていったように思う。とても勢いがあったのだ。この「艶」の頃には、要さんの長いパーマヘアもすっかり定着し、ロックバンドの風格が感じられるようになってくる。と、いっても楽しいステージは相変わらず。いや、もっとだ。あの手この手で楽しいライブを繰り広げるスタレビは、ライブバンドとして多くの人々に認識されていくようになる。
光田健一 スタレビの正式メンバーに
1998年、サポートメンバーだった光田さんが、スタレビの正式メンバーになることが発表された。私も含めてファンの間では、そうなる予感があったし、そうなってほしいという気持もあったので、光田さんの加入は本当にうれしいものだった。スタレビは、メンバー、スタッフ、ファンとの結びつきが強い。だから光田さんも、加入前から正式メンバー同様の認識があったと思う。
幼いころからクラシックなどの音楽に囲まれて育ち、音楽大学にも在籍し、絶対音感の持ち主でもある光田さん。その抜群の音楽センスで、スタレビの楽曲に新たな彩を描いていくことになる。要さんたちからも頻繁に「光田はすごい」の声が聞かれた。
音楽的センスはもちろんだが、ステージに、一際若い光田さんがいることによって、よりライブが和やかなムードにもなっていた。サックスの山本公樹さんと共に、楽曲の振付でも盛り上げてくれた。「Goodtimes&Badtimes」「もうチョットだけ何か足りない」「NO!NO!Lucky Lady」など、手をフリフリする振り付け。光田さんがサポートで入っていた頃にできたもの。以降、現在でもその振付は続いており、ライブで非常に盛り上がるシーンとなっている。
「CHARMING」に続くアカペラアルバム第二弾「DEVOTION」の発売や、スタレビ史上、1ツアー最多公演の100か所を回る「STARS」ツアー、など今まで以上に精力的に活動していく。
光田さんの加入発表の第一報はスタレビのファンクラブ「FLAPPER CLUB」からで、会報だったと思う。1998年当時は、ネットがまだ普及していない時代。会報の表紙に写る5人を見て、そしてコメントを読んで「健ちゃんがスタレビに!」と大喜びしたことを覚えている。
事務所からの独立
2001年、全100公演の「STARS」ツアーを終えたスタレビは、所属事務所アップフロントエージェンシーから独立する。自分たちが音楽活動をしていく中で、よりよい方法を探し、またきちんと責任をとりたい、という思いがあったそう。要さんは、独立に関して、「お金もないし、簡単に独立できるとは思わなかった。でも、今の社長(鬼木秀則氏)たちがいろいろ計算してくれて、何とか大丈夫そうだ、と。事務所も温かく送り出してくれて円満退社です。ほんとうにありがたいです。」と語っていた。
当時、スタレビの事だけを考えて動いてくれるスタッフが欲しかったととも語っていた要さん。アップフロント時代は、一緒にいるスタッフに、スタレビ以外の別のアーティストの事で電話がかかってくることも多々あったと。「何やら良い話みたいだ。なんだー※KANの事かよ(笑)」とがっかりする要さん。
※KAN 大ヒット曲「愛は勝つ」を持つシンガーソングライター。スタレビとは仲が良い。特に要さんとは交流が深く、FM COCOLOのラジオ番組「KANと要のWabi-Sabiナイト」では爆笑トークを繰り広げている
こうして(有)ラプソディを立ち上げ、社長には鬼木秀則氏が就任。鬼木さんは、レコード会社ワーナー時代にスタレビについてくれていた方。業界にも詳しく、顔も広く、何よりスタレビのよき理解者で、スタレビ愛の深い方。独立の際、声をかけてもらったことは「とてもうれしかった」そう。この鬼木さん、今では多くのスタレビファンから愛される方。とてもやさしくてあたたかい笑顔は、多くのスタレビファンをとりこに。スタレビが東日本大震災を機に始めた、ライブ会場での義援金箱設置。ライブ前、ライブ後に、募金箱のよきに立っているのが鬼木さん。募金するとオリジナルのスタレビステッカーを手渡してくださる。コロナを機に、義援金はいったん中止しているが、会場ロビーには鬼木さんの姿が。グッズコーナーに立ち、ファンに声をかけ、お話する姿にはファンへのやさしさたっぷりで、心があたたかくなる。
事務所独立と時を同じくして、インディーズレーベル「ハレルヤ」の立ち上げも。大手レコード会社から離れ、大手レコードチェーン(株)新星堂が経営する、(株)オーマガトキへ移籍。スタレビにとって初めてのインディーズ。ファンにとっても、聞いた事のない会社、しかもインディーズ、という事で心配の声も。が、スタレビは「新しいことをやれるチャンス」としてその心配を払拭していった。
少なからずバラードのスタレビというイメージもあったこの頃。もちろんファンの間では決してそれは本意ではない。それを打ち破るように行ったのがライブ「No Ballads」。名前通りバラードなしのライブ。ホーンセクション「BIG HORNS BEE」+山本公樹を迎えた一夜限りのゴージャスなライブ。この日の模様はレコーディングされ、ハレルヤレーベル第一弾のアルバムとしてリリースされた。
アップテンポなナンバーばかりを収録したこの「No Ballads」は個人的にとってもテンションの上がるアルバムであるトークがおもしろいと評判の要さん。そのMCだけを収めた「MCD」がついており、大爆笑してしまう。
ギネス認定 「つま恋100曲ライブ」
デビュー20周年を記念して、2001年8月4日、静岡県のつま恋多目的広場で「100曲ライブ」が行われた。このつま恋は、スタレビがデビュー前、「アレレのレとジプシー」で出場し、優秀曲賞を受賞し、デビューのきっかけとなった、ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)が行われた、ゆかりの場所でもある。
集まった約1万5000人のファンを前にして、彼らは何を思っただろう。
真夏の炎天下、「各自休憩しながら、好きなようにスタレビを楽しんでほしい」という想いの元、午前10時から10時間で100曲という「100曲ライブ」はスタートした。「みんなが自分たちと同じように、長時間スタレビを楽しんでくれたことがうれしかった。」と語るスタレビ。スタレビにとっても、ライブバンドとして、間違いなく大きな自信につながったに違いない。
のちにこの日のライブは、ギネス認定されている。24時間で1つのグループによって最も多く演奏された曲数としてである。半分冗談のつもりで申請したところ、認定されたというもの。ギネス認定されるともらえる賞状は、その後、スタレビのファンクラブイベントで、ファン一人一人が手に取ってじっくりと見ることができた。これも、スタレビ側のファンへの感謝。ファンクラブイベントでは、スタレビとファンが非常にに近いのが特徴である。
「100曲ライブ」は、お弁当付きで「崎陽軒のシウマイ弁当」配られた。配られたら、痛むのを防ぐため、「すぐに食べて」と要さんからのアナウンス。そのため、「同じ弁当をこんな大人数が一堂に食した、というのもギネス申請すればよかったかな(笑)」というネタも。
ちなみにこの「シウマイ弁当」。もしライブが悪天候等で中止になればお弁当がいらなくなる。そうした時、キャンセルを受けつけてくれるお弁当屋さんはそうそうない。しかし、手を挙げてくれたのが「崎陽軒」。「うちでは、そのくらいの数ならどうとでもなりますよ。」と引き受けてくれたのだ。それ以来、スタレビもファンも崎陽軒には足を向けて寝られないのだ。と、言っても「崎陽軒がどの方角にあるのかわからないからどっちに足を向けていいのかわからない(笑)」とは要さん談。
光田健一の当然の脱退
独立、そして自分たちのレーベルも立ち上げたスタレビは、ニューアルバムのレコーディングにとりかかった。「自分たちも知らないスタレビを見てみたい」との思いで、初めて外部からプロデューサーを招いた。それが真心ブラザーズやエレファントカシマシなどを手掛けていた熊谷昭氏。
結果、この出会いが、要さんの作詞に対する考え方に大きな影響を与えた。アマチュアの頃から、デビュー間もない時期は、「歌詞なんてどうでもよかった」と語っていた要さん。「この曲にはこんな詩が合うかな」といった風に考えて創っていたそう。もちろん、年齢や経験を重ねていく中で、自分の想いを歌詞にこめていくようになっていったと思う。
熊谷氏とのレコーディングでは、作詞したものをことごとく却下され、厳しく歌詞の部分を鍛えられた。「根本君は、普段のしゃべりはおもしろいのに、詩は全然おもしろくない。なんでもっと本音を書かないの。本当の心からのラブソングが聴きたい。」と何度も書き直しをさせた。要さんは、当時を振りかえって「本当に苦労した。ラブソングって言っても、俺なんてそんなに恋愛経験もないし…。でも、この時鍛えられたことがいい経験になっていて、詩に対する考え方が本当に変わった。この経験が今に活きている。」と語る。
レコーディングが進む中、スタレビとファンに激震が。キーボードの光田さんの脱退が発表されたのだ。脱退の理由としては、マネージメントの問題があったという。光田さんは、スタレビに加入する前のサポート時代から、自身のソロ活動やプロジェクトで活動していた。スタレビの正式メンバーになってからも、マネージメントはスタレビ側ではなく、これまで通り、光田さん側のマネージメントに所属していた。要さんからの説明では、「けっして仲たがい金銭の問題などのトラブルではなく、マネージメントがうまくいかなくなってしまった。マネージメントが二つあることが難しかった。」と語っていた。こうして2001年11月20日に光田さんの脱退が正式発表された。
この時の衝撃は今でも覚えている。当時は、ネットが普及し始めた頃で、噂が発端だったと思う。「健ちゃんが脱退する」どこかからの噂が広まり、結果それが真実になった。スタレビも光田さんも急遽コメントを発表。光田さんは自身のHPに、スタレビはFAXで取り寄せることができた。スタレビに、当時HPがあったかは記憶が定かではない。のちにファンクラブ会報にも載った。
もしかすると、理由の全てを口には出せないのかもしれない。ファンには計り知れない、本人たちも上手く言葉にできないさまざまな理由、実情があるのかもしれない。でも、ファンとしてはそれぞれの言葉を信じ、受け入れることが明日につながった。それはきっとスタレも光田さんも同じで、コメントではお互いにこれまでの感謝と最大限のエールを綴っていた。
その言葉通り、今でも光田さんは、スタレビの仲間。初代キーボーディストの三谷泰弘さん同様、スタレビのイベントなどに参加している。
また、レコーディング中の光田さん脱退という事で、アレンジなどに苦労することになったスタレビ。そこの作業を快く請け負ってくれたのが三谷さんである。こうして完成されたアルバムは「Style」と名づけられ2002年1月1日にリリースされた。真っ白なジャケットに「Style」とだけ記されたシンプルなジャケット。スタレビがまた、4人となって新しくスタートを切る。そんな予感も感じされるいいジャケットになったと思った。
こうしてスタレビはまたしても、キーボーディストが脱退するという大きな転換期を迎えた。しかし、それはまた「今」へと続く未来への光でもあったのだ。