デビューから41年目に突入したスターダスト・レビュー。その長い歴史にはメンバーの脱退、という大きな転換期がありました。これまでに初代キーボードの三谷泰弘さん、2代目キーボードの光田健一さんが脱退。キーボーディスト2人が脱退したため、「キーボードが居つかないバンド」と要さんの自虐も。
現在、スタレビには正式なキーボードは加入していません。ですが、現サポートメンバーでキーボードの添田啓二さんは、スタレビにはなくてはならない存在。スタレビの歴史は、キーボーディスト3人によって1期、2期、3期と分けられるかと思います。そんなスタレビの歴史を、デビュー前からひも解いてご紹介します。
スターダスト・レビュー デビュー前 アレレのレ
スタレビの前身は、「アレレのレ」というアマチュアバンド。「ジプシーとアレレのレ」で、1979年の「ヤマハ第18回ポピュラーソングコンテスト」本選会に出場。「おらが鎮守の村祭り」で、優秀曲賞を受賞したことがデビューのきっかけ。
要さんたちの「アレレのレ」は当時、とても評価の高いアマチュアバンドとして知られていたそう。「ジプシー」は、スタレビの初代キーボーディストである三谷さんが在籍していたバンド。「どうせならみんなで出ようぜ」と要さんの案で、「ジプシー」と「アレレのレ」を合体させた「ジプシーとアレレのレ」で出場。ちなみに、この大会のグランプリはクリスタルキングの「大都会」。
「アレレのレ」では、キーボードをTHE JAYWALK(前J-WALK)の杉田裕さんが担当していたが、退したため、アマチュアバンド仲間で評価の高かった三谷泰弘さんが加入。杉田さんは地元の仲間。ちなみに、要さんの出身地、行田市、柿沼さんの出身地、羽生市、寺田さん、VOHさんの出身地は熊谷市でだが、それぞれ近いので熊谷市を地元と呼ぶことが多い。
三谷さんは、寺田さん、VOHさんと同じ年。アマチュアバンド仲間ではとても評価が高かったそう。「アレレのレ」への誘いはとてもうれしかったし、予想もしていたとの事。
ドラムでは、手島昭さんという地元の仲間が参加していたが、家業(大工)を継ぐために脱退。寺田さんが参加することになる。この頃、要さん、柿沼さん、VOHさんは大学生。寺田さんは就職しており、仕事をしながら趣味で音楽も、といった形。でも、杉田さんから「生半可な気持ちじゃだめだ」と諭され、仕事を辞めバンドに専念。ところが、そう言った杉田さんは「アレレのレ」を脱退、J-WALKに加入。このことは語りつがれる笑い話。そうしてスタレビはデビューへの道を歩き始める。
ちなみに、手島昭さんは今でもスタレビと仲が良く、スタレビ関連のライブにも参加。初期の楽曲には、手島さん作詞のものも多い。
「アレレのレ」より前に遡れば「怪盗20面チョ」とは、要さんが中学時代に組んでいたアコギバンド。
高校でと柿沼さんと出会い、プログレ中心のロックバンド「クリスタルウェーブ」が結成される。そこからメンバーが入れ替わりし、名前も「アレレ」「アレレのレ」と変化し、スタレビの前身バンドが出来上がっていった。
デビューするにあたり、バンド名を「アレレのレ」から「スターダスト・レビュー」に改名。名前の由来は、ジャズのスタンダードナンバー「スターダスト」とグループが持つ多様な音楽性をレビュー形式で披露したい、とのことから。が、要さんいわく「バンド名なんて何でもよかったんだ(笑)」との事。その名前は、「スタレビ」の愛称で多くの人に愛されていくことになる。
スターダスト・レビュー 第1期 1981年~1994年
1981年5月25日、シングル「シュガーはお年頃」アルバム「STARDUST REVUE」でデビュー。
周囲の期待は高かったがセールスの結果は惨敗。「シュガーはお年頃」は時計メーカー、シチズンのCMソングに採用されていたがまったく売れない。デビュー当日、ライブ帰りの東名高速で、楽器と共にメンバーが乗っていた車がエンストを起こしたこと、は要さんいわく「これからのスタレビを予想させる話」として有名。メンバーもスタッフの心にも暗雲が立ち込めたのでは…。だが、デビュー前からライブの評判は上々だったスタレビ。とにかくライブができることがとてもうれしかったそう。
1981年11月~、エリック・クラプトンの来日8公演に、スタレビはオープニングアクトして出演。これはちょっとした自慢。クラプトンは、要さんがギターを始めたきっかけであり、今でも敬愛するミュージシャン。
勝負曲「トワイライト・アヴェニュー」リリース
レコードセールスが低迷していたスタレビは、スタッフから「次の曲が売れないと後がない」と言われ窮地に。しかし、初めて作詞家・竜真知子さんに依頼して書いてもらった1983年リリースの4枚目のシングル「トワイライト・アヴェニュー」が少し話題に。作曲した要さんによると、イメージは松田聖子さん。女性アイドルが歌ってくれたらいいな、といったもの。
セールス的には伸びなかったようだが、それまでよりはスタレビの名前が知られるようになったのでは、と思われる。今では「トワイライト・アヴェニュー」はスタレビの名曲として根強い人気。私も、大好きな曲。間奏の要さんのギターソロ。珠玉のメロディーです。
「夢伝説」のスマッシュヒット
転機は1984年に訪れる。1984年の5枚目のシングル「夢伝説」がスマッシュヒット。カルピスのCMソングに起用されたことで知名度が上がった。スタレビのターニングポイントはまさしくここでしょう。
当時、中学生の私もこの曲でスタレビの名前を知る。周りでも「夢伝説」を好きだという子が多かった。当時はラジオから流れる曲で、ヒット曲を認識したり、好みの曲に出逢ったり、という事が多かった時代。「夢伝説」もそういった意味で、多くの人々にき聴かれていたように思う。中学生の私にとって、スタレビはとても大人のバンドに思えていたが、要さんの伸びやかな歌、壮大なメロディーに心を持っていかれていた。
ライブバンドとして定着
デビュー以来、コンスタントにライブを行ってきたスタレビ。レコードセールスが伸び悩む中、ライブに重きを置いていたスタレビ。逆にライブしかなかった…とも言えるのでは。レコードセールスも伸び悩み、テレビに出演するようなバンドでもない。でも、ライブには定評がある。来てくれるファンのために、最高のライブを繰り広げていたのではないだろうか。それは今でも変わらない。
「夢伝説」のスマッシュヒットで知名度が上がったスタレビ。それまでよりも多く、ライブができるようになる。主に主要都市圏のライブが多かったのが、地方にも行けるようになる。大きなツアーが組めるようになる。そうして、地方でスタレビのライブを観たファンたちの口コミでますますスタレビは、ライブバンドして定着していったように思う。
1985年ごろには、すでに「スタレビのライブはおもしろい」と話題になっていて、当時、高校生だった私も「スタレビのライブ行ってみたい!」と思っていた。
今思えば、ネットなどなく、噂が広がるのもタイムラグがある時代に「なんかスタレビっていいよね」という空気が流れていたのって、とてもすごいことなのではないかと思う。
ベストアルバム「Best Wishes」がチャート2位
ライブの集客率が増えていく中、セールスも好調になっていく。特筆すべきは、1990年リリースのベストアルバム「Best Wishes」。オリコンの週間チャートで2位になった。デビュー10周年を記念した意味合いのものであるし、ベストアルバムというのは多くの人に手に取ってもらいやすい。このアルバムは、スタレビをより身近に感じてもらえる作品になったのではないかと思う。
「夢伝説」以降のシングル「今夜だけきっと」「Stay My Blue-君が恋しくて-」「Be My Lady」「君のキャトル・ヴァン・ディス」などは、多くの人が知る楽曲だと思う。特に「Stay My Blue-君が恋しくて-」は女優・浅野温子さん出演のメニコン(コンタクトレンズメーカー)のCMソングとして流れており、浅野さんと映像の美しさと、楽曲の世界とがぴったりで何とも言えない世界観を醸し出していた。
三谷泰弘の突然の脱退
コンスタントにアルバムをリリースし、ツアーの規模も大きくなり、スタレビとしての活動は順調だったように思う。そこへ、1994の三谷泰弘さんの脱退。三谷さんが「やめたい」といった時、要さん達は冗談だと思ったそう。「何言ってんだ?明日になったら気が変わるさ」と思っていたそう。でも、三谷さんが本気だと知って驚く。要さんの頭には「解散」も文字もよぎる。なぜなら、「誰か一人でも抜ければバンドは解散する」と思っていたのだから。
とことん4人で話し合い、三谷さんの脱退を受け入れたスタレビ。「解散」も考えた要さんたちですが、スタッフの「続けよう」の言葉にリーダーとして4人でのスタレビを続けることを決意。
三谷さんが脱退の意を発したのは、1994年5月リリースのアルバム「楽団」の製作中。同年6月からの「楽団~The Band Goes to Tow~」ツアーは、三谷さんの脱退は伏せられたまま行われた。要さんは事実を伏せたまま、各地を回るのはつらかった、と。嘘はつきたくないから「また5人でここに戻ってきま~す」とは言わなかったそう。5人では絶対にないから。
三谷さんとは仲たがいしたわけでもない。結論から言えば、音楽性、方向性の違いのようなもの。
当時からこれまでの要さんの発言を思うと、三谷さんにとっては、多メンバー3人のレベルが低かった、三谷自身が、自分がやりたいように音楽をつきつめたかった、多メンバーが三谷さんに頼りすぎていた、などの理由が考えられる。
三谷さんは、アマチュアの時から上手かったけど、デビューしてからぐんぐん才能を伸ばし、要さんたちは追いつけないと感じていたよう。そんな三谷さんに制作、アレンジなど、おんぶにだっこだった、と語る要さん。「三谷も自分がやりたいんだろう」と思っていたそう。でも「あいつからしたら、『任せっきりで』と思っていたかもしれない。」と。その頃の三谷さんの創るサウンドは、生の楽器よりもコンピューターサウンドが多くなってきていて、要さん自身もギタープレイの少なさに、物足りなさをを感じてはいたよう。
1980年代半ばから多くの楽曲をアレンジしてきた三谷さん。当時のスタレビの肝とも言っていい存在。
キーボードやシンセサイザーを駆使した、デジタルで洗練されたサウンドは、当時のスタレビをおしゃれなバンド、といった印象にも仕上げていた。実際、デートにスタレビのライブが選ばれ、クリスマスコンサートにも多くのカップルの姿があった。
「楽団~The Band Goes to Tow~」ツアー終了とともに、三谷さんの脱退を正式に発表。12月に開催の「STARTIC’94」ツアー全7公演をもって、三谷さんのスタレビとしての活動は終了となる。このツアーの模様は、ビデオ化、のちにDVD化されており、ステージ上にはいつもと変わらぬ楽しいスタレビがいる。収録は12月23日の横浜アリーナ公演だが、ツアーファイナルの12月25日福岡国際センターでのエンディングの様子も収められている。
三谷さんと各メンバーが笑顔でハグしあう姿には、こちらも万感の想いがこみ上げる。その姿からは悲しさは感じ取れない。それぞれがお互いの気持ちを尊重し、前に進む、というポジティブな気持ちが伝わる。こうして三谷さんはソロへ、スタレビは4人での新しいスタートを切った
私が、初めてスタレビのライブに参加したのはこの「楽団~The Band Goes to Tow~」ツアー。三谷さんが脱退するなどつゆ知らず、ただただ楽しく、最高のライブだった。このライブでスタレビのとりこになり現在に至る。
先に書いたように、当時のスタレビはおしゃれなバンド、というイメージがあり、自分たちより大人の世代のファンが多かった。それでなんとなく行く機会を失っていたのだが、行きたい気持ちが勝ち参加した。他のアーティストとは全く違うライブ、その楽しさは圧巻だった。
スタレビのモットー「高い音楽性と低い腰」は、この頃からすでにあったよう。
スタレビ以外のコンサートにはよく行っていた私。当時の主流であった、こぶしを突き上げメッセージ性のあるロックコンサートとは一線を画す、楽しさと笑いの中にある上質な音楽。それがスタレビだった。あきらかに今まで行ったほかのライブとは違った。その時のライブは今でも覚えているし、その楽しさは今もずっと続いている。